特集インタビュー:「大阪のカフェー」は何を語るのか

明治末から昭和初期にかけて、日本の都市文化を象徴する存在だった「カフェー」。東京発祥という通説に対して、大阪の存在感を改めて浮かび上がらせたのが、今回の雪本剛章さんの研究です。クラブジョーズ(CLUB JAWS)編集部は雪本さんに、この魅力的な「夜の文化」の歴史と実像を語っていただきました。

「都市型娯楽の原点」

編集部:まず最初に、「カフェー」という言葉が現在とは違う意味を持っていたことに驚かされました。そもそも、当時の「カフェー」とはどのような空間だったのでしょうか?

雪本剛章(以下、雪本氏): 現代の「カフェ」と聞くと、コーヒーを静かに飲む喫茶店を思い浮かべますが、大正末から昭和初期の「カフェー」はまったく別物です。アルコールを提供し、音楽が鳴り、そして何より、女給さんと呼ばれる女性たちが接客をする、まさに「歓楽の場」でした。後にキャバレーやスナック、純喫茶へと枝分かれしていく、都市型娯楽の原点だったんです。

大阪・西区川口に「カフェー・キサラギ」

編集部:東京・銀座に1911年(明治44年)にオープンした「カフェー・プランタン」が日本初のカフェーとされていますが、雪本さんはそれより前に大阪にカフェーが存在していたと指摘されていますね。

雪本氏: はい。通説では「プランタン」が最初とされていますが、実はその前年の1910年(明治43年)、大阪・西区川口に「カフェー・キサラギ」という店が開業していることが、昭和初期の文献『女給生活の新研究』に記されています。この地域は当時、外国人居留地として栄えていて、西洋文化がいち早く流入した背景がある。つまり、大阪も日本のカフェー文化の始発点だったということです。

「大正デモクラシーという時代の気分」

編集部:カフェー文化が都市に急速に広がった背景には、どんな社会的要因があったのでしょうか?

雪本氏: まず挙げられるのは、大正デモクラシーという時代の気分ですね。自由で放埓(ほうらつ)な空気、モダン・ボーイ(モボ)やモダン・ガール(モガ)の登場、「エロ・グロ・ナンセンス」といった風俗の多様化が、都市の夜をカフェーという空間に象徴させたわけです。カフェーは、酒場でもあり、社交場でもあり、恋愛市場でもありました。人々はそこに「自由」を感じていたのかもしれません。

「ミナミは眠らない街だった」

編集部:大阪・ミナミには特にカフェーが集中していたそうですが、当時の規模感について教えてください。

雪本氏: 昭和4年(1929年)、島之内警察署の調査では、道頓堀や心斎橋を含む同署管内だけで220軒のカフェーが確認され、女給の数は1500人を超えていました。表通りはもちろん、路地裏にも中小の店舗が並び、それぞれが個性を競っていた。ミナミは、まさに「眠らない街」だったのです。

昭和初期の「赤玉」

編集部:その中でも特に印象的なのが「赤玉」という店ですね。どのような存在だったのでしょうか?

雪本氏: 「赤玉」は昭和初期、大阪・道頓堀にあった巨大カフェーで、夜のミナミの象徴的存在でした。赤いネオンの風車が屋上で回り、壁面にはライトアップされた婦人画、そして大きく「Akadama」の文字が浮かび上がる。地上2階、地下1階の堂々たる店舗で、内部はシャンデリアが輝き、バンド演奏、チークダンス、さらに「赤玉少女歌劇団」というレビューショーまであった。もはやエンタメ複合施設ですね。

伝説的な興行師

編集部:「赤玉」の創業者・榎本正さんについても少し触れてください。

雪本氏: 榎本正さんは、「カフェー王」「キャバレー王」と呼ばれた伝説的な興行師です。最初は日本料理店から始め、そこにカフェーを併設し、成功をおさめました。昭和2年に道頓堀に移転し「赤玉」を本格化。1936年には「メトロポリタン」など系列店を展開しました。彼の手腕が、大阪の夜の街を形作ったと言っても過言ではありません。

都市の文化史を知ること

編集部:最後に、こうしたカフェー文化は現代にどう受け継がれているとお考えですか?

雪本氏: 現在のキャバクラやガールズバー、ライブハウス、さらには“純喫茶”の文化にも、カフェーのDNAが息づいています。単に酒を飲む場所ではなく、時代の空気をまとい、人と人が交差する場として、形を変えながら続いている。だからこそ、カフェーを知ることは、都市の文化史を知ることでもあるのです。

編集後記

雪本さんの語り口からは、単なる懐古ではない、都市のエネルギーや人々の情熱がありありと浮かび上がってきた。カフェーという空間が、どれほど「時代の鏡」であったのかを、私たちは今一度見直すべきかもしれない。